KBTのブログ

茨城暮らしKBTの日常を書いてます。

辰野町にて

 さる2日の長野県辰野町内での有賀幸作艦長(戦艦大和最後の艦長)関連の史跡等訪問について。

 まずは前回のブログの画像を再掲します。有賀(あるが)艦長のレリーフが埋め込まれた平和祈念碑。「大和」生存者らにより建立。
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 日没後でとても暗い上、昭和40年代建立のため碑文がかすれているみたいで読むのは無理でした。以下の内容の碑文が表面に書かれているそうです。

国に捧げた君たちの尊いいのちよ
とこしえに世界平和のいしずえたれと祈る


 裏面の碑文はこのサイトを参照を。1945年(昭和20年)4月6日、このブログを書いているちょうど71年前に戦艦大和以下の第二艦隊が徳山沖を出港、翌日にアメリカ軍の空母からの発進機により激戦となり大和は沈没となりました。随伴駆逐艦のうち幾つかは佐世保に無事帰還。戦闘については映画「男たちの大和」の映像を見ればイメージできますね。勝つ(目的を果たせる)公算の全くない「海上特攻」にかり出された将兵に合掌。煙幕をしながら航海すれば沖縄まで行けたとの説もありますけど、「歴史のもし」をもう考えても無意味。その中で珍しく現場で作戦中止を指示し、生存者のひとりでも多くの確保を優先させた伊藤整一司令官およびその実際の指揮をとった有賀幸作艦長は尊敬すべき軍人と思います。

 戦艦大和の沈没は大日本帝国海軍の象徴の消滅で、このあとは航空機による特攻作戦ぐらいしか海軍では目立った作戦は行われなくなり、日本側および枢軸軍側から見れば戦史の転換点や悲劇の瞬間ととらえられます。最後には世界で唯一に原爆の投下もされてしまいました。一方で世界的に見れば、日本に占領されていたアジアの国々は解放される見通しが立った瞬間といえるのではないかと私は思います。まあ、それらの国々も太平洋戦争が終結してもインドネシアのようにかつての宗主国との間で独立戦争が起きたり、朝鮮戦争のような東西の代理戦争が勃発したりして平和が訪れるには長い時間がかかりましたけど。
 映画を見たり辰野町のこの碑を見たりして、歴史や正義とは何?などなどを考えた半日でした。大和乗組員の願いのように世界平和になる時は来るのでしょうか?あるいは永久にない?

 法性神社には町が建立した平和祈念碑も。
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 改めて、世界平和が訪れますように。

 徒歩5分の至近の場にある見宗寺。
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 有賀艦長および一家のお墓があります。暗いので位置が分からず、墓参したつもりで退却しました。また明るい時に訪れてみたいです。
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地元・牛久市の自宅近くのソメイヨシノ(昨日4月5日撮影)。故郷へ帰ることを果たせなかった戦争のすべての犠牲者に贈ります。もちろん米国以下連合軍の人たちへも。

 …と、なんだか感傷的な内容となりました。この日は中央道辰野バスストップから高速バス駒ヶ根新宿線で葯3時間で東京の新宿へ。ビビリ振動が非常に激しいバスでウトウトもままならずでしたが古いバスだったのでしょうか。冬タイヤのためもあるかな。定刻より10分も早く着き、京王新宿駅構内のC&Cカレーで夕食、これは外せません、スパイシー!ご飯の量はもちろん少な目に注文。そのあとJRに乗って牛久駅へ。